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■白山信仰
日本では、山そのものを、古来、神聖なものとして崇拝されていました。白山は夏でも 雪が残って、一年中消えることがありません。いつでも雪をいただく神聖な山として、信 仰の対象となり、富士山や立山とならんで日本の三霊山として有名であります。 泰澄大師以前の山岳信仰は神聖な山を遠くから遙拝するだけでした。ところが泰澄大師 は、夢のおつげに従って直接白山の頂上までのぼり、その行程の苦しさを厳しいひとつの 修行としました。
白山の頂上を白山天領といい、また禅定ともいい、その修行の登山道のことを白山禅定 道といいます。白山にたいする信仰がひろまるにつれ、白山の神に村を守ってもらおうと する鎮守の神として、多くの社が建てられていきました。それが、現在各所に見られる白 山神社です。
■全盛期
白山平泉寺の「四至内」は、おおかた一里四方でした。中世において「四至内」とか境 内というのは、経済権や警察権などが、白山平泉寺にあるということです。
白山平泉寺は、平安末期から佐佳枝、奥州藤原氏とも交流があり、藤原秀衡から黄金の 梵鐘を寄進されたとも伝えられています。
平泉寺の最盛期は室町時代でしたが、寺領として「九万石九万貫」あり、1つの院や坊 の所領の石高は飛鳥鳥井宝光院は八千石、日本一の法師大名であるといわれていました。 元禄時代頃(約300年前)に特写された「中宮白山平泉寺境内図」には、多数の院や 坊が山々に満ち、壮大な宗教都市が描かれています。境内には「四十八社三十六堂」の建 物群と北谷に2400、南谷に3600、合わせて6000の坊舎があったといいます。 また、現在の菩提林の石畳道も平泉寺全盛期の名残であり、「日本の道百選」の1つに 選ばれています。
■興亡
「朝倉始末記」などの記録には、一向一揆と平泉寺の戦いや盛衰について書かれています。 天正2年(1574年)一向衆徒の国にしようと、越前で最後に残った地主領主である 平泉寺を一向一揆の攻撃の対象にしました。
一向一揆勢は村岡山に堀・柵・乱杭などを築き戦いに備えました。ここに平泉寺軍の本 体を引き出した後、豊原寺や七山家の衆徒が暮見山がら三頭山を越えて平泉寺を攻撃し、 北谷の明王院に放火しました。その火が講堂や坊舎に燃え移ったと伝えられています。こ の時、平泉寺にはわずかな僧と稚児、若衆しかおらず、空き屋同然だったので、なすすべ も無く、戦いに敗れてしまいました。これを知った村岡山近くに布陣していた多くの平泉 寺勢は急いで平泉寺へ退去しようとしました。
しかし、浮き足だった平泉寺軍は一揆勢のはさみうちに合い大敗。残った衆徒も平泉寺を 去っていきました。
この天正2年の戦いによって白山平泉寺は全山焼失してしまいました。
■再興
一向一揆との戦いによって、白山平泉寺は全て焼失しました。その後、白山平泉寺の学 頭であった顕海は1583年(天正11年)に平泉寺に戻り、仮の草庵(賢聖院)をいと なみ再興のための宗教活動を行って、三所(本社、越南知社、別山社)の仮殿を建立し再 興の一歩を踏み出しました。顕海は天正17年に亡くなりますが、その功績から「平泉寺 中興上人」と呼ばれています。
一向一揆との戦いの後、平泉寺は豊臣秀吉や歴代の福井藩主、徳川幕府、勝山藩主など の保護も得られ「北国白山別当平泉寺」といわれるように、白山の全体を総括する別当職 としての権威をもちながら、古代からの宗教活動が継承されてきました。しかし、かって の輝かしい繁栄は戻ることがありませんでした。
明治政府が成立してまもなく1868年(慶応4年)、神仏分離令がだされ、全国的に 排仏毀釈の運動が高まりました。これにより、平安時代以来の神仏習合の伝統が廃棄され 白山大権現とか八幡大菩薩の名称が禁止されました。
平泉寺では仏教関係の施設や仏具を売却し本殿、拝殿、鳥居などを残して白山神社とな り、現在にいたっています。今も平泉寺白山神社の二の鳥居には「白山三所大権現」の額 が、拝殿には「中宮平泉寺」の額が掲げられ、神仏習合のなごりをとどめています。




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