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豪雨の時、お店は店舗部分だけではなく、裏の倉庫まで水・泥で覆われてしまいました。被害を受けた部分も広く、溜まった泥も厚く、何より男手が必要でした。そこに、被災状況をテレビで見たという高校生グループや仕入先の問屋さん、納入先の飲食店の方などが「何かお手伝いできることはないですか?」「日頃お世話になってるし、困った時はお互い様だからね!」と、毎日10人ほどの方が手伝いに来てくれました。 |
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豪雨から3日目の朝、突然10年来のお客様が手伝いに来て下さいました。いつも物静かで自分の事を語らずスーツに高級車で来られる方なので、作業着にスコップを持った姿にびっくり。そして、一日作業をして最後に店の床にワックスまでかけて下さいました。うれしくてありがたくて思わず涙が出てきました。せめてこの方が次に来られるまでは、きれいな床のままにしておきたいと思い、他のお客様にはスリッパを履いてもらったくらいです。 |
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水害にあった次の日の朝、店の状態を見て目の前が真っ暗になりました。しかし、そんな気持ちもすぐに払拭されました。どこからともなく、取引先、子供の友人、親族等様々な人が20名ほどボランティアで駆けつけてくれました。なかでも中学・高校生時代にアルバイトをしていたA君が「おじさん、お久しぶりです。」と訪ねてきて、約10年ぶりの再会。彼の立派に成長していた姿に驚かされたが、それ以上に一生懸命に泥かきをしてくれる、その頼もしい姿を見て家族一同大変勇気づけられました。 |
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水害に遭った次の日、40名のボランティアが駆けつけてくれました。取引先の方が中心でしたが、中には朝早くから電話で『従業員をいくらでも使ってくれ、弁当も用意しないでいいから』と1日に10名程度手伝いを派遣してくれたところもありました。その方々はおにぎりひとつも受け取らず、更に泥だらけの皿を自社へ持って帰って洗ってくれました。 |
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先の豪雨では、私の会社も被害にあいました。倉庫が水に浸かってしまい、大切な書類の数々が水害ゴミに。土ぼこりの舞う道をゴミ集積所と会社を何往復もし、さすがに疲れた顔で信号待ちをしていると、誰かが助手席の窓をたたきます。見ると道路わきで泥で汚れた商品を洗っていた薬局の方が、洗いたての栄養ドリンクのビンを持って立っていました。 |
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床上浸水になりましたが、友人や取引関係者中心で手伝ってもらいました。電話は3日間不通だったので、県外の取引先が遠くは東京から駆けつけてくれました。1週間で何とか事業再開できました。涙が自然に出てきました。今後は他地域で同じ災害に遭ったら、絶対にボランティアに行く決心をしました。 |
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深夜からの雨の音が今までとは違い胸騒ぎを感じ眠れなかった事を覚えています。午前5時ごろ、家の横の養殖池が山からの水で溢れ始めました。8時半過ぎには、川の水が目の高さまで溢れ、川向の山が崩れ始めました。道路のアスファルトが濁流で「パターン・スー」とめくられました。9時過ぎには、兄の家族と一緒に上流の道路に避難したのですが、自宅の裏山が10時過ぎに崩れ始め、家のガラスが「バリバリ」と音をたてて割れる光景を目にして、恐ろしさのあまりオロオロになってしまいました。ただ見ているだけで何も出来ず「生きていて良かった」事だけを思っていました。 |
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午前6時ごろは、何も無く午前7時に金見谷まで行けたが、危ないかもしれないと思い、とりあえず車2台を下池田支所まで移動させました。徐々に水が増し、当日は、親父の33回忌をするつもりだったが午前8時頃に美山のお寺に電話したら「通行止め」で行けないと聞いたため福井まで来ている親戚に中止の連絡をしました。そのころには、家の前の橋は上流から流れてきた丸太がひっかかり欄干まで濁流が覆い被さるようになっていました。その中を着の身着のままで避難しました。被災から二日間は、近くの大工小屋で過ごしましたが、家の状態を見たら何から手をつけていいかわからない状態でした。このため、家を見ていると気がめいるため、しばらくは救援物資を運ぶ協力をしていました。 |
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その朝は午前4時ごろから、自宅前の金見谷川から「ゴロゴロ・ドンドン」と石の流れる音がしていました。その日は、区の総仕事でしたが7時ごろから雨が激しくなり、ゴーとものすごい音をたてて三面張りの上まで跳ね上がっていました。区長や地区の人達と谷からの溢れた水を止めたりしていたのですが、雨が強く、8時半ごろには町道に冠水し始めました。地区内の車庫や住宅に濁流が流れ込み出し、皆で対策に追われていました。下流の様子を見に出たのですが、道路にはすでに土砂が出ており、青々していた田んぼも9時過ぎには土砂に埋まっていました。雨の降りは8時頃から9時過ぎまでがひどく、屋根から流れ落ちる雨が白いカーテンを吊るしたようでした。その夜は、自宅に何人かが避難して過ごしました。翌日は、「とにかく役場へ連絡を」と思い、3人で杉峠まで登り携帯電話で全員無事を役場へ伝えました。役場への連絡の後は、地区に残っている住民から頼まれた全世帯の連絡先に無事を連絡しました。 |
「助けて下さい」・・・緊急通報で助かりました 池田町75歳 前日の夜から裏の谷川から「ガンガラ・ガンガラ」と石の流れる音がしていました。当日は、朝方、神社の谷川が埋まり、濁流が谷口の国道を流れ始め、私の家の玄関を押し破り入りこんできました。見ている間に畳が浮き始め、恐ろしくなったので、午前8時頃「緊急通報システム」で助けを呼びました。 |
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水害後、通勤途中フェニックス通りを車で走っていると、砂埃で汚れているお店のシャッターを丁寧に磨いている姿に気付いた。次の日も、その次の日も、毎朝、最初に見かけてから1週間は磨いているではないか。よく考えてみるとお店は水害の後始末で忙しく、店のシャッターを磨く余裕はない中でこれは取引関係者だということがわかった。でもお店の開店時刻には引き上げていて、お店の人自体その行動、存在に気付いていなかった。何も言わずに去っていくこの行為にボランティアの真髄を感じた。 |
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町内総出で泥かきをしていましたが、ボランティアの方々にも手伝っていただきました。本来、自分の家でもないのに自分の街という意識を持って町内に住んでいる人と同じくらい一生懸命働いてもらいました。おそらく会社を休んでいる方もいたと思いますが、このボランティア休暇を認める会社のご理解にも感謝しています。 |
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家は床上浸水で2回ボランティアを頼みました。最初、業者に頼んでいましたが、他と掛け持ちしていて忙しく、日程が不確定でなかなか片付けられない中、ボランティアを頼みましたら次の日には来てくれました。荷物やタンス運び、泥かき等力仕事はどうしても家族が少ない世帯ではなかなか捗りません。業者と比べると完全なものとはいえないかもしれませんが、ある程度片付けて頂いて、苦しいときに助けられた実感がいまでも忘れられません。 |
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近所で県外に出ていた息子、娘たちが自分の家だけでなく、町内の他の家も手伝っていた。自分の家でも手一杯なのにそれも、家主より先にテキパキと進んで泥運びをしてくれた。近所で住んでいながら話したこともなかった人たちと知り合いになれました。不謹慎かもしれませんが、この水害で町内の絆が深まったことは言うまでもありません。 |
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家を建てて1年経過していない中、床下浸水しました。家を建てた建築業者がボランティアとして駆けつけてくれました。泥出しはもちろん、消毒液まで撒いてくれて非常に助かりました。 |
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となりの奥さんはあまり愛想のいい方では無く、挨拶をしても聞こえないのか返事が返ってこないことが多く、もちろんむこうから挨拶をしてくれることなんて一度もありませんでした。そんなわけでいつからか私もお隣と距離を置くようになっていました。 今ではこちらが気付いていない時でも、あいさつしてくれます。 |
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7月18日の集中豪雨災害は夢にでも思い出したくない光景です。家の中が泥海と化し、どうしたら良いか、途方に暮れて呆然として立っているしかない家族でしたが、我に帰って前向きで立ち直る様に心を入れ替えて床を水で洗い流し家財道具の後始末をしましたが、床板を取り外し、2度ビックリでした。大工さんに話をした所、床下のヘドロを取り除いてから床板をすると言われ、ヘドロをどうして取ろうかと心配していました。夜、はぐるま太鼓より電話があり、ボランティアをと言われ、一度は拒否しましたが、次の日の朝もう一度電話あり、「武生から出発したからお手伝いさせて下さい。」と駆けつけて下さいました。そのとき、大工さんがみえてヘドロを取り除くために床板を外すと言っている所へはぐるま太鼓の10人程かけつけて下さり、半日くらいでヘドロを取り除き、私たちの心配も一歩前進でした。本当に10人の10代の若者の力には恐れ入り、地獄に仏だと先方にも申しました。10人の若人はリーダーの指導の下に何事もリーダーの云うとおり動いて、食事、飲み物持参で駆けつけてくださり、本当に助かりました。この時ほど人力のお蔭様だと思い、私達も他で災害があった場合、多少でもお力をお貸しし、助力したい気持ちで一杯です。 |
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床上浸水で周りはため池状態でしたが、なかなか水が引かなく、最初の3日間は家族、知人中心で道具や荷物運びしましたが、4日目はさすがに体がだるくなりました。子供も会社出勤しましたので家族人数も少なく、ボランティア派遣をお願いしました。特に広さ6畳の泥山を掻きだしてくれましたが予定より早かったので、別の泥山も掻きだしてくれ、非常に助かりました。 |
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近所でボランティア活動している高校生の姿を見て、今の若者も捨てたもんじゃないと感じました。彼らなら将来の日本も安泰でしょう。 |
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老夫婦なので人手が足りない中、様々な人がボランティアで手伝いに来てくれた。他人の手なんか借りたくないとは言えませんでした。自分の家のように泥を必死で運んでいました。後で聞いた話ですが、実は会社で募って交代で出てきていることがわかりました。その時は、敢えて会社名は言わずに去っていった。 |
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息子が高校生の時、息子の同じクラブの先輩が両親の帰りが遅いというので、家も近いこともあり、よく晩御飯を食べさせてあげていました。「お母さん」と慕ってくれていたその子は、今は大工をしてるんですが、この水害で私の家が被害に遇ったとき、他のお客さんを後回しにして真っ先に直してくれました。近所の人に聞くと大工さんはこの水害で忙しく、お願いしてもなかなか来てくれないというので、私の家が町内で一番早くきれいになりました。 |