こまちなか観光MAP

MAPへ戻る
No25  岡田啓介像
岡田啓介像

福井市大手3-11
 
 昭和9年(1934)7月、斎藤内閣の後を継ぐ形で岡田啓介は、県人初の内閣総理大臣に任命された。
 当時は3月事件、10月事件、5・15事件と不穏な出来事が相次ぎ、政治は腐敗し、汚職事件が頻発していた。満州で政治への不信感から軍による満州事変が起こると、全国的に「我が国の政・財界の腐敗、軍内派閥の対立と国家、民生を忘れた国内の情勢に対し、昭和維新を断行し、乱れた世相を正そう」という空気が強まっていった。つまりいつクーデターが起こっても不思議ではなかったのだ。
 斎藤前首相も「こういう時代には岡田のような粘り強く自分の信じる道をゆく男が良いと思う」と岡田を推したという。海軍大臣引退後、自宅にいた彼は「ただならぬ 時勢だから」と引き受けたものの、それなりの覚悟はしていた。その約1年半後、昭和11年2月26日午前5時、2・26事件は勃発した。30年ぶりの大雪で白一色に染まった街の静寂を銃声と悲鳴が打ち破る。「昭和維新」を信奉する青年将校ら20余人が約1,400人の兵士を指揮し、政府要人宅を襲撃。斎藤内大臣、高橋蔵相、渡辺教育総監、鈴木侍従長が銃弾に倒れる中、岡田首相は女中部屋の押し入れに逃れていたために難を逃れる。彼を逃がすため身代わりとなったのは彼の義弟・松尾伝蔵大佐だった。この昭和最大の事件で九死に一生を得た岡田だが、事件の2日後に天皇に拝謁した際、彼は自ら謹慎を申し出る。軍を押さえ切れなかったことに責任を取って切腹するよりも生きて新たに奉公する道を見つけようとしたのだろう。
 決起から4日後、事件は終結するが、時代の流れは一気に戦争へと加速する。内閣を総辞職し、ひたすら謹慎をしていた岡田だったが、太平洋戦争が激しくなると終戦工作のため「東条内閣」打倒に乗り出した。そして昭和20年、岡田が尽力した鈴木貫太郎内閣成立後、日本はようやく終戦を迎えた。
一覧はこちらTOPへ戻る