こまちなか観光MAP

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No59  西光寺
西光寺

福井市左内町8-21
 
 柴田家の菩提寺で勝家、お市の方の木像が祀られている。この西光寺は勝家が城下町を築いた時、今の位置に移転したとして知られる。また敷地内には柴田勝家公資料館があり、見学は無料で開放している。
 柴田勝家が北ノ庄城主となったのは天正3年(1575)、一向一揆討伐後に織田信長が越前支配を命じたことによる。その際、信長は越前支配の基本ともなる九ヵ条の掟を出し勝家もそれを守って越前をよく治めた。当時盛んであった一向一揆対策のための刀狩り、北ノ庄城の築城、九十九橋の改修と信長亡き後もその善政は続いた。
 もともとは信長の実弟・信行の家臣であった勝家。一度信長に刃を向けるものの、その後忠実な重臣となり、明智光秀、豊臣秀吉などと共に信長が死ぬまで幾度となく厳しい戦乱をくぐりぬけた。中でも陣中の水瓶を全て割って兵士に覚悟をさせたという「瓶割り柴田」の伝説となった六角承禎軍との激戦は有名だ。
 だが信長の没後は秀吉との勢力争いが激化していく。織田家の跡目を決めるため開かれた清洲会議で、勝家は信長の三男・神戸信孝を、秀吉は嫡孫の三法師を推す。
 結局は秀吉一派に論破され、これを快く思わない信孝は勝家と組んで秀吉を除こうと謀る。これを察して秀吉は先に長浜城主・柴田勝豊を降し、争いは長期戦へ突入した。彼らの勢力争いは天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いにおいて終焉を迎えた。
 柴田軍も健闘するが秀吉の電撃作戦に敗走、北ノ庄城に篭城する。同年4月23日、秀吉は足羽山に布陣し、諸隊に北ノ庄城を包囲させた。その際、捕らえていた柴田軍の佐久間盛政と勝家の養子・勝敏を城兵の前にさらしたという。同日の夕暮れ、北ノ庄では酒宴が催された。柴田方の最後を悟っての宴である。
 勝家は妻・お市の方に娘3人(秀吉側室の淀君、小浜藩主京極高次室、徳川秀忠室)と逃げることをすすめるが、彼女は彼と運命をともにすることを選んだ。勝家はそれを受入れ、娘3人を逃がした後、妻とともに割腹。二人の遺骸は天守閣とともに炎に包まれた。ほととぎすの声のする、明け方近くであったという。
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